更新日:2024.4.2
空調診断士の研修講師を務めて約10年になる。私は、昭和45年に東京都健康安全研究センター(都立衛生研究所)に研究職として採用され、それ以来、同一職場、同一職種で、おおよそ35年間、各種の測定業務(大気汚染物質、変異原物質、アスベスト、環境ホルモンなど)に携わってきた。それらの仕事を通して、「はかるということ」とは何か、測定の意味することを深く考える機会があった。そうした経験からお話ししたい。
<はかる>仕事は現代社会のあらゆる職場、職種に及んでいる。たとえば、健康診断の測定や病院での血液検査から、住宅や土地の測量、税金の徴収、ダイエット中でのヘルスメーターまで日常生活のあらゆる場面で、人間は〈はかる〉ことに余念がない。健康診断などの測定値は、基準値(医療統計の平均値±2標準偏差値)に比較しての評価が容易であるのに対して、専門分野のデータや行政官庁が公表する数値の評価は難しい。中央公論新社の「<はかる>科学」には、たいへん興味深い内容が書かれている。現行のメートル法は、肘から中指の先までの長さ(キュビット)の2倍のスケールから作られていることを知る人は少ない。
1.空気の汚染をはかる
昭和40年から50年頃は、公害問題の真只中で、大気・河川・海洋などで汚染がピークを迎えていた時期である。室内汚染も深刻で、オフィスビルの空気汚染をはかる仕事が最初の現場であった。当時のビルの空気汚染は、現在とは桁違いの汚染状況であった。室内喫煙は当たり前の慣習で、オフィス内でも、公衆現場環境でも全く自由で、何の規制もなかった。室内の人口密度も過密で、人が吐き出す炭酸ガスにより、オフィス内の濃度が、1000ppmを超えることは珍しいことではなく、1時間もそこにいると頭が痛くなるほどだった。立ち入り検査によって、そうした汚染を監視し、行政指導を行うのが、東京都の環境衛生監視員の役割であった。
2.空気の微生物をはかる
空気汚染の一つである細菌やカビなどの汚染問題が、レジオネラ感染症の発生をきっかけに起きてきた。人が有する常在細菌とか、ビル環境が発生源であるカビが健康に影響を与える、いわゆる「シックビル症候群」が明らかになってきた。こうした状況で、1995年に「空調システム清浄度評価委員会」をJADCAで立ち上げた。そもそも微生物を測定することは、他の汚染物質をはかるのと根本的な違いがある。目に見えない細菌やカビなどを可視化して、定量的に数値化するにはいくつもの越えなければならないハードルがある。まず、微生物の培養(カルチャア)ができるか、それらの培地の選定、空気の採取装置(エアーサンプラー)の選定など、採取に伴う技術をマスターしなければならない。そうした条件をクリアしたうえで、はじめて汚染の評価ができる。最後の難関は、空気の清浄度をどういう基準をもとにするかである。そうしたなか、JADCAでは、「空調システム清浄度評価委員会」を立ち上げ、各種の調査・検討を実施した。そうして、都内のビル調査をもとに、カビ汚染をビルの清浄度として判定する「JADCAスタンダード規準」を公表した。現在、空調システムの診断に使われている清浄度の目安である浮遊カビの数値は空調吹出口で、30個/立方メートルとなっている根拠は、都内ビルを対象として、清掃前後の微生物量測定環境調査の成果である。
3.放射能をはかる
2011年3月11日、東日本大震災が発生した。太平洋の100kmにわたる海岸を襲った10mを超える大津波により、福島第1原発の3基がメルトダウンした。そこで、定年退職後の再雇用の5年間、環境放射能の測定に携わることになった。飲料水、大気降下ばいじん(フォールアウト)と大気の環境放射能の測定を行った。環境放射能の単位として、3つの数値がある。「ベクレル(Bq)」と「グレイ(Gy)」と「シーベルト(Sv)」単位で、射線を出す能力を単位は「ベクレル」で、1ベクレルは、1秒間に崩壊する放射性物質の原子が一つという数値である。グレイは、「吸収線量」の単位で、身の回りの物体がどれだけ放射線のエネルギーを吸収するかの目安である。シーベルトは、スウェーデンの医師シーベルトが決めた人体の放射線影響の目安である。「線量当量」の単位で、放射線の生物への影響をあらわす数値である。自治体の環境放射能測定に広く使われ、杉並区役所前の放射能レベルは、0.07マイクロシーベルト/1時間と発表されている。現在、原発の廃炉作業が進行中であるが、原発処理水とは、1~3号機内のメルトダウンした核燃料(デブリ)に接触した冷却水で、建屋に流入する高濃度汚染水を除染設備で、セシウム137やストロンチウム90などを低減化し、多核種除去装置(ALPS)でトリチウムを除く残存する放射性物質を除去後、貯蔵タンクに保管した大量の処理水である。震災から今年で13年になるが、貯蔵タンクが満杯で限界となり、東京電力は、処理水を海水と混ぜてトリチウム濃度を排水基準(1500 ベクレル/L)の40分の1未満まで希釈して、原発沖合1キロの海底から放出している。しかし漁業関係者は、風評被害を恐れるだけでなく、隣国の中国は、日本の全水産物の輸入禁止を発表して、今や水産物業界の命運を左右しかねない状況である。こうした状況で、安全性の根拠となる放射能のデータを正確に読み解くことのできる情報活用力(リテラシー)が要求されている。国際放射線防護委員会 (ICRP)の勧告によれば、年間100ミリシーベルトを超えると、発ガンリスクが0.5% 増えると公表されている。ただし、そこには多くの背景要因(バックグラウンド)が存在する。人的要因、遺伝的要因、環境要因(住居・職場・屋外)・趣味行動・余暇的要因などの交絡因子がある。バックグラウンドとなる低線量被爆のリスクに対して、環境汚染物質を例に出して、喫煙リスクの方が数百倍高くなるとか、なかには放射能を気にするストレスが、発ガンのリスクをあげるとコメントする似非学者まで飛び出してくる。こうした世論の不安に対して、データを提供する測定者の立場からは、何らのコメントもできない。そもそも環境放射能を測定する仕事は、ある条件のもとで、きわめて限定された装置や機器を使って微量な値を検出して、データとして数値化するまでの作業であり、それより一線を越えることはできない。多様なバックグラウンドを持つ自然環境や都市環境のほんの一部を切り取って、数値化(デジタル化)することであり、測定値は氷山の一部分、海面上に浮かぶ小さな氷の塊しか見ていないのである。
4.地球環境をはかる
地球温暖化の要因とされる二酸化炭素(CO2)は、2021年の大気中濃度が、ハワイ島のマウナロア観測所(アメリカ海洋大気局)の月平均値で419ppmと過去の最高値を記録した。CO2の正確な測定機器を発明したC. D.キーリングが正確な観測を開始した1958年当時では、315ppmであったので、約100ppmも増加したことになる。国連の「気候変動に関する政府間パネル(IPCC)」が1988年に設立され、2023年3月に、第58回総会の議決を経て、「第6次評価報告書」(AR6)が公表された。昨年の国連議会で、グテーレス事務総長は、「今や地球沸騰化の時代が来た」と発言した。かつて、NASAゴダード宇宙研究所の気候学者J.ハンセンが「地球温暖化には、人為的要因が99%の確率で認められる」と言ったが、2021年ノーベル物理学賞が与えられた真鍋淑郎教授は、大気と海洋にCO2循環モデルを提唱して、気候変動モデルの元となったのが受賞の理由である。彼は「気候変動を人類のメジャークライシス(重大危機)」と呼んで警鐘を鳴らす。化石燃料削減対策や省エネ対策を推進させ、削減に取り組んできているにもかかわらず、その測定値の上昇には歯止めがかからない。地球的な大規模な異常気候の兆候はすでに世界各地に起きつつあり、気象庁は、昨年夏の日本は、過去126年で最も暑い夏を記録したと発表した。世界中で、ノアの箱舟のような洪水による被害が報告される一方で、オーストラリアや北米大陸での熱波や干ばつでコアラや野生動物の生息地が消滅している。果たしてCO2濃度の測定観測により、これ以上の地球温暖化を防止でき、地球環境が変わるのであろうか?
5.測定の意義
行政側には情報公開の義務がある。一方それらの情報をいかに伝えるかで、メディア・リテラシー(情報理解力・活用力)が問われてくる。一般住民が頭ごなしに受け取らざるを得ないそうした情報をどう理解するか、正確な情報を得て、より良い対応ができるかが問われてくる。気象予報や市場予測などには、ビッグデータが欠かせない。それらを扱うスーパーコンピュータやAIの開発により、膨大なデータを読み解くことのできる一方で、人は、受動的な情報量の急激な膨張に追いついていけるのだろうか?人間の頭脳処理を超える情報受容力を高めることには限界があるため、相対的に人の知識(受容可能な情報量)はますます減少していく。インターネットがよりグローバル化し、瞬時に世界の裏側の出来事が伝えられても、原発事故による福島県の避難住民の声を聞いても、行動変容を起こせないのが現実ではないだろうか。現代の科学技術は、当面の課題なり難題に対して、「とりあえずの最善策」を与えることでしかない。世界で生じる出来事はいつも不確実で、人間は必ず間違うということを前提としなければならない。間違いを認めて、それを常に修正していくことのできる「開かれた社会」が理想社会である。人間と社会との歴史の流れの中で、現在の環境と人間との関係を測定しデータ(記録)として残しておくことは、私たちの未来を救う手がかりとなることだと思う。
1) 阪上孝・後藤武:<はかる>科学-計,測,量,謀・・・〈はかる〉をめぐる12話(中公新書1918)(2007)
2) 和田純夫他:新・単位がわかると物理がわかる(ベレ出版)(2014)
JADCA学術顧問(元東京都健康安全研究センター)
狩野 文雄